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ハンドメイドアクセサリー販売中(お休み中)https://www.instagram.com/yumel_on看護師10年、趣味でダンサー7年、仕事も趣味もやめて、3カ月間の下見を兼ねて観光VISAでオーストラリアのゴールドコーストへ渡豪。 その後ギリホリ開始、バンダバーグのファームで4ヶ月間過ごしセカンドVISAを取得。その後シドニーへ移動したが再びロビンベール、ケンリーで3ヶ月間のファーム生活へ。その後メルボルンへ移動し、仕事探しの際に運命の出会い、豪No.1日本人シェフと出会う。大手日本企業社長宅へのケータリングやIronChefのイベントにも参加させてもらい、メルボルン最先端の飲食業界へ足を踏み入れる。当時はワーホリの賃金は現金支払い・違法が多く、平均13ドル程(11ドルもあった)で物価の高いメルボルンでの生活は苦しく、無我夢中で働きお金を貯める。ワーホリが終わる頃、自力で永住権取得を目指しシェフの専門学校へ2年間進学、英語での授業、仕事掛け持ちに拍車がかかる。卒業までに次のVISAが必要で、スポンサーとなる企業を見つける為、休日返上、誰よりも働き信頼関係を築いた結果、掛け持ちの2社両方からスポンサーのオファーを頂く。1つの企業に決めスポンサーVISA申請の為シドニーから社長が来られてお会いし準備に入った矢先に青天の霹靂、移民法改定457VISAの廃止。当時シェフから永住権を目指すのは457VISA必須だったがゼロからのスタート。この時点で完全帰国か再び学生になるかの選択を迫られパティスリーの専門学校へ1年半。オファーを頂いたレストランとカフェは辞めたのでさらにスポンサーの可能性のある企業、仕事探しをし続ける。卒業前、数名の移民弁護士に相談するも日本ではシェフでない為職歴が足らず、さらに英語の試験もクリア出来ず、ダメ元で語学学校へ学生VISAを3ヶ月申請。学生VISAは永遠に受理される訳ではなくて前回のVISAとの関連性やなぜ進学するのかなど明らかにし認められなければ却下される。ここ数年は特に厳しく私にとって一か八かの賭け。無事VISAは受理されたものの、たった3ヶ月で状況は一変することはなく、泣く泣く2019年12月末に帰国。学生VISAによる人生の制限がある中での生活は苦しい。永住権を手にした瞬間に全てが報われると信じて希望を持ってやれるだけの事はやった。7年間の海外生活で得た知識や経験、人脈はかけがえのない宝物であり、誰にも真似出来ないと自信をもって言える。オーストラリアを諦めて完全帰国したつもりはなく、日本でシェフとして働き不足している職歴を作るために沖縄県石垣島へリゾートバイトでホテルに就職。コロナが収まらず休業状態になり苦しい自粛生活で心が病んだ。コロナが世界中で拡がり、思ったように動けないのがもどかしい。旅行で何度も訪れた沖縄に住むのはとても難しい。なんなら島を出たい 笑。メルボルンでは全く考える必要のなかった自然災害の恐怖。台風、大雨、落雷、地震、津波、湿度の高さなど気候の違い、1番島を出たい理由が部屋の中で鳴くヤモリの遭遇。気が狂いそう。メルボルンのど真ん中で永住権が無い中では、それなりの経験値を積み高い目標があった当時と離島ならではの自然豊かで何もないゆるい生活水準に加え、モチベーションが高い人が周りにいない(おじぃとおばぁ)いい意味でテキトーでええよ~的な感覚。同じ飲食業界にいるのに今までやってきた事が全く役に立たない、新しい物を創り出すより昔からの伝統を大切にする食文化。(レストランによるし伝統も大事)いわゆる方向性の違い、私は創作料理がやりたいから。コロナ終息の目処が立たずここで頑張ってもメルボルンに戻れるのかさえ分からない不安。神経質で心配性な性格が日本に帰ってきて発揮されて毎日メルボルンと比べては文句しか出ませんが、島の良いところを発見出来るようにアンテナを張りつつ、あまり考え過ぎないようにゆるりと生活出来たらなぁと思います。06/25/2020 変更追記08/23/2021約半年間石垣島で生活し実家に戻る。次の職場は長崎県佐世保、ホテルレストラン。追記10/01/2021平日カフェのキッチン、土日役所窓口業務の掛け持ち。追記18/08/2023リゾバ再開長崎県佐世保へ2回目07/12/2023愛知県豊橋市へ01/02/2024愛知県名古屋市へ職場が最悪で中等度うつ発症。途中リタイヤ05/03/2024地元で休養中4月末/2024地元の臨時職員27/05/2024広島県宮島へ02/07/2024神奈川県海老名市へ09/20/2024長崎県佐世保3回目11/25/2024愛知県豊橋へ2回目
テーマ: 愛知
田舎暮らし
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