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茨城県日立市大みか駅前商店街で幼少期を送る。もっとも古い記憶は、2歳の時に、頭から下水道に落ちて痛かった事である。駅のロータリーで、コンクリートの上を行くアリの行列に「電車のお通りだ!」と言って石を引きずって殺傷する残忍さを持つも、自販機の下に10円玉を探しては交番に届けて、お巡りさんに「偉いね、はい飴玉」と褒められに行くようなガキだった。<小学生時代> 小学生時代は、ジャンケンで負けただけで悔し泣きをするような負けず嫌いさの芽が、徐々に出始める。 身体は小さく、小学入学時の体重は16キロだった。近所の一番太っていた小1の子供が42キロだった事を考えれば、とてつもなく軽かった。身長は詳しく覚えてないが、当時「ビック130」というハンバーグのCMがあり、ガンマン風の子供が、背の高い順に「ビック140!ビック130!」というセリフを言う場面で、一番小さい子供が「128!」とセリフを言い、大きい子供に睨まれるという内容であった。その128センチよりも自分は小さかった事を覚えている。 将棋にハマり、どうしても勝てない相手は2名しかいなかったので、クラスで3番の実力だったと思う。 また、逆上がりができず、悔しくて公園で特訓している時、電柱に絡まった凧が風でクルクル回っているのをヒントに、手首のみ引っかけて逆上がりする技を見つけ、10秒で10回逆上がりができるようになる。 フォーモスという英会話教室に通い、英語のみで「7人の小人」という劇をやるというコンテストに出、背が小さい割にはでかい声の大きさで優勝する。 そろばんを6ケ月間毎朝練習し、準2級に合格する。 少年サッカーに入るも、すぐに辞める。 背が小さい割に、4メートル以上の走り幅跳びの記録を保持していたため、学校代表に選ばれ、「トビウオ」というあだ名を付けられる。 教室でケンカしたときに、お互いの机をひっくり返しあったが、相手の机の中身は整理整頓されていたために床に散らばったが、自分の机の中身はグチャグチャで中身が出てこなかったので、整理整頓ができないゲッタゲタという意味で、「ゲッタ」というあだ名を付けられる。 なお、小学生のときに書いた将来の夢は、「ラーメン屋になるか、世界を相手に商売する」だった。ラーメン屋は、おそらく、小5のときにおじさんのラーメン屋を手伝っていたからだと思う。<中学時代> 卓球部に入部。マラソン部かと間違えるほど、走りこみをさせられる。また、顧問の先生はフォア打ちとショート打ちしかできない素人だったが、徹底した基礎練習で、丘中卓球部は結構強かった。今思えば、基礎練習の賜物だったような気がする。ちなみに、私は相変わらずチビで、卓球台に届くのがやっとだった。 背が小さいせいか、不良っぽい女子に、「かわいい!」と、ズボンを脱がされたり、教室の隅で囲まれたり、よくイジメられた。 中学3年のとき、テープの中の丸いプラスチックのテープ巻きをボールに、ペンを人間に置き換えて、机の上でサッカーをする「ペンサッカー」というゲームを生み出す。クラスの男子がほぼ全員参加で、休み時間に、私が仕切ってトーナメントをやって盛り上がった。 また、オーバー・ザ・トップという腕相撲の映画が流行り、休み時間に、クラス中で腕相撲がなされていたが、私は女の子にも勝てなかった。この悔しさが、高校時代に筋トレに目覚めさせるキッカケとなる。<高校時代> 実家が洋品店で、商売人家族だったため、「将来は、商売人になるぞ!」と、県立の水戸商業高校へ入学。合格すると思ってなかったので、心の底から嬉しかった記憶がある。 空手部に入部。空手にはあまり興味なかったが、格技場にあったバーベルで鍛えようと思った。中学生のときに、女の子にも腕相撲で負けていたからである。入部とともに、毎朝6時50分に格技場に忍び込み、ベンチプレスを始める。高1のとき、胸囲76センチで、40kgしか上がらなかったが、その後、高2で胸囲83センチ、高3で胸囲95センチまでアップする。ベンチプレスは、105KGまで上がるようになり、腕相撲でも女の子に勝てるようになった。と同時に、身体がゴツくなり、女の子から「可愛い」というイジメはなくなる。 バーベル以外では、ファミスタにハマる。友人に初版を借りてプレイし、コンピュータ相手に余裕で勝てるようになり、「俺はうまい!」と天狗になったところ、その友人に返すときに対戦したら、5回13点コールド負け。悔しくて仕方なく、その日から1日3時間の特訓を開始。スコアノートを付け、全投手の球速・カーブ・シュート・フォークの数値を暗記。打順も、自分と相性のいい打者等を研究に研究を重ねて、オーダーを組んだ。徹底した特訓の結果、見事、その友人に完勝。気がついたら、ファミスタでは負けなしとなった。 ドラクエにもハマる。弟がドラクエ1をやっていたとき、「そんな一人でやるゲーム、何が面白いんだ!どけ!!」と喧嘩してたものの、自分がやってみたら、ハマった。特に、ドラクエ3はなかなか買えず、今はないが水戸のユニーに熱心に通っていたら、おばちゃんが内緒で1つ取っておいて感動する。それからは、ユニーでしかゲームを買わなくなった。 真面目グループに属し、休み時間にはトランプの大富豪ばかりやってた。 高校生になると、性欲が最高潮となるも、恥ずかしくて男友達の前でも下ネタは言えない「むっつりスケベタイプ」だった。 後の天職となる、簿記に関しては、47名中45番の成績。まさか、簿記で飯を食うとは、微塵も思っていなかった。人生わからないものである。<浪人時代> 洋品店は私で3代目だったが、全く興味なかったので、「税理士になって、店の帳簿を作る!」と思い、大学進学を目指す。しかし、高校時代に全く受験勉強をしてこなかったため、自分の偏差値すらわからない状態。また、評定平均も、投手の最優秀防御率並みだったので、当然推薦など貰えない。もちろん、浪人する。 筑波ゼミナールに通学。何と、大甕~水戸の6号国道(約20キロ)を、雨の日以外、ママチャリで通学する。バーベルも買って、自宅で続け、胸囲も102センチまでアップ。38歳の今では考えられない、身長163センチ、体重62キロ、胴囲58センチという体型を維持。 英語と古文のみを勉強する。当時、勉強方法など全くわからないため、テキストの丸写しをただひたすら繰り返す。この時に習った、今井先生が、現在超大物講師になって、テレビCMに出ていたときは、びっくりした。 経営学部を希望することは決まっていたが、願書取り寄せのとき、唯一、切手代がかからなかったことと、トレーニングルームがあるということだけで、岐阜の朝日大学を受験することを決めて、合格。他の大学も念のため受けたが、朝日大学の合格発表が一番早かったので、即決した。<大学1年生時代> 家賃2万円の学生寮に住む。入学式の前日に寮の先輩が歓迎会をしてくれ、「親切な先輩達や!」と感激するも、実はそれがボーリング部の勧誘の前座と気が付くのは、後であった。そのままボーリング部に入る。ボーリングのスコアは、当初アベレージ100だったが、180までアップする。 しかし、学生寮ということもあり、入学式前に20人くらいの友人ができる。毎日が修学旅行のようで、とても楽しく、税理士になるなどという志は一瞬で消える。 大学生になるにあたって、変えたい自分があった。それは、「むっつりスケベ」からの脱却である。幸い、岐阜の大学だったので、知り合いが一人もおらず、あまり気恥ずかしくなく、自分から下ネタを言いまくった。その結果、「むっつりスケベ」からは脱却するも、代わりに、「性の化身」という代名詞と、部屋にある有害図書の多さから、「エロスの館」と名付けられる。なお、あだ名は、名字に「っち」を付けるのが流行っていたので、私は「後藤っち」と呼ばれた。 簿記原理の講義の時、担当講師(のちのゼミの先生)が、「出席係になりたい人!出席係のメリットは、毎回出席するので、必ず単位が取れることです」と言ったため、私はすぐに挙手した。そして、何と、教壇に上がってみんなに挨拶するときに、あれほど高校の時に勉強しなかったクセに、みんな普通高校で簿記が初心者なのをいいことに、「簿記は毎日勉強しないと駄目です」などと、啖呵を切った。そのたった2ケ月後に、友人に簿記で抜かされる。我ながらアホだった。 ゴールデン・ウイークは帰省せず、学生寮に残った。友人の稲っちも残り、寮のロビーにあった卓球を始める。やり続けているうちに、どちらかが「辞めよう」と言いだすまで辞められない雰囲気となる。10時間くらいやったときに、険悪なムードとなったので、私から言い出して終わったが、「俺とデスマッチして、負かすとは大した根性だ」と思っていた。後に、彼は牧師という職業に生涯を捧げることになる。やっぱり生き方にも、根性があった。 トーカンという、サークルK(当初、岐阜にはサンクスもセブンイレブンもなかった)に配送する食品を仕分ける会社にアルバイトに行く。後に、公認会計士を目指して勉強するので、大学生時代のアルバイトはこれだけである。 女子短大生とコンパをしまくるも、私は全く駄目。かすりもしなかった。そんな中、友人は次々と彼女ができ始め、徐々に、私は「なんで、俺だけ恋人ができないんだ!」と、嫉妬心の塊と化していった。 秋の学園祭のため、1年生は全員、パンツ一ちょ、全身ローションまみれ、頭に天使を輪っかを付け、西城秀樹の「走れ正直者」の曲に合わせて踊る練習をさせられる。 ちょうどその頃、LL教室という好きな映画を視聴できる所を発見し、行ってみた。そこで、私の人生を180度変えてくれた女性(KAさん)に出会う。2秒で殺された。一目ぼれである。<大学2年生時代> 彼女は4年連続特待生で、毎年授業料免除の優秀者。その上、バイトで稼いだお金で、様々な資格も取得しており、私は「こりゃ、今のままではまったく釣り合わない。俺も、勉強して、彼女に追いつこう。今はまだ告白しても消費税くらいの確率(当時は3%)だが、1%づつ可能性を上げて行こう!」と決意。そして、彼女にお願いした。「6月の日商簿記2級に合格したら、ご飯をおごってもらえませんか?」と。 今思えば、何て自分勝手な奴かと思うが、恋のパワーを勉強のモチベーションに活用させてもらった。すると、何と「いいよ」とのお返事があり、生まれて初めて好きな女の子とデートできるかもしれないというモチベーションが爆発。それから一日多い時は16時間の猛勉強が始まる。それまで出来た200人あまりの友人・知人との付き合いをシャット・アウト。 途中、5月の連休明けに、体育のバレーで張り切りすぎ、左足の半月板を損傷し、手術を受ける。しかし、「彼女の駐車場の近くの整形外科に入院すれば、お見舞いに来てくれるかも!ラッキー!」と、わざわざ高い病院に入院する親不孝をする始末。そして、思惑通り、点滴を打っている最中に、本当にお見舞いに来てくれ、大興奮するも、5分後に友人がお見舞いに来て罰の悪そうな顔をする。興奮のあまり点滴がズレ、看護婦さんに大目玉をくらった。こっちは初デートがかかっているので、手術前後以外も必死で勉強をしていたら、お見舞いに来てくれた友人が、「怪我をしているのに勉強している何て凄い!俺も何か打ち込めるものをみつけなきゃ!」と勝手に感動してくれた。 そして6月の日商簿記2級本試験日。テキストを30回以上やり、テキストをほぼ丸暗記するくらいに勉強したので、見事合格!念願の初デートを達成する。2時間かけて唐揚定食を食べ、人生初の告白。しかし、「婚約者がいて、半年後に結婚するの」とフラれる。失恋の苦しさを一生分味わう。 その後、日商1級を独学で始めるも、半年は腑抜け状態。11月の日商簿記1級も100点中4点しか取れなかった。失恋の苦しさを抑えながら、「こりゃアカン。大原簿記に通学しよう」と、名古屋の大原簿記学校と大学のダブルスクールを開始。<大学3年生時代> 6月の日商簿記1級は、54点獲得できた。 その頃、大学で公認会計士の教授が担当する監査論が始まる。と同時に、茨城県の竹内県知事がゼネコン汚職をする。当時、正義感の塊だった私は、「俺の生まれた故郷で何をしてやがる!許せん!でも、大学生がたった一人意気がっただけでは、世の中何も変えられない。よし!公認会計士になって、監査をし、偉くなってから世の中を変えるぞ!」と意気込む。そして、監査論の教授に恐る恐る「公認会計士に合格するためには、だいたい1日何時間勉強しなければいけないんですか?」とお聞きする。すると、「公認会計士は難しくて大変だよ、後藤君。1日5時間は勉強しないと駄目だ」とおっしゃった。日商2級のときに、多い時は1日16時間勉強していた私は、心の中で、「へ?たった5時間?2級のときはその3倍やってたよ。思ったより、大丈夫そうだ!」と、少し安心。早速、清水先生のお勧めもあり、7月からTACの「夏休みの地獄の大特訓コース」に入りました。 地獄の大特訓コース(←本当にこのネーミングでした!)は、4月入学の受講生と、9月に合流するため、7月・8月で4月~8月分の4ケ月間の講義を消化させます。当時の公認会計士試験は、短答式も選択科目もなく、1年で合格する人が結構いました。簿記・原価計算・商法・経済を1日3コマ(1コマ約3時間)づつ消化するのですが、微分積分ができない私は、経済学で苦しみました。そこで、何が何でも公認会計士に合格するため、大学の経済学の吉田教授に、「経済学をマンツーマンで教えてください!」と直談判しました。すると、吉田教授は、「熱心だな。よし!木曜日の2時間目なら空いているから、研究室に来なさい」と快く了承をいただきました。ありがたかったです。と同時に、熱心のお願いすると、相手にハートが伝わるものだと実感したのも、この時期です。 それからの大学3年時の私は、自分の中では、勉強の量に関して、世界一やったと自負できます。毎日、朝の10時50分からの大学の講義を出席→大学の講義終了の夕方16時20分から徒歩30分+電車26分で名古屋へ→18時15分~21時15分までTACで講義→23時頃に学生寮に到着し、それから冬でも水風呂(ボイラーが22時半で止まるため)に入り、早くても夜中の3時まで、遅ければ朝の7時まで、その日の復習をしました。 その繰り返しを364日。残り1日は、誕生日に39度の熱を出して寝込んだ日。それ以外は、当時の日記を読み返しても、勉強、勉強。勉強しか書いてません。はっきり言って、大学3年生には二度と戻りたくないです。 唯一の楽しみは、TACから帰宅する際に、WITHというレンタルビデオ屋に寄り、シングルCDを2枚借り、それを聴きながら復習すること。おかげで、演歌以外の年間ヒットチャートは全て知ってました。 親に大学とTACの学費を出して貰っていたので、何とか大学の学費を免除するために、特待生を狙うも、学年2位。悔しかったですね。<大学4年生時代> 7月に公認会計士論文式(当時は短答式なし)を受験するも、全く手も足も出ずに撃沈。周りは上級講座に行きますが、私は、「こりゃ、基礎からやり直さないと駄目だ。急がば回れ。まずは日商簿記1級に軽く合格できるレベルまで計算科目のレベルを上げよう」と、日商簿記1級の勉強に焦点を絞りました。具体的には、「日商簿記1級の講師ができれば、合格できるやろ。人に説明できるレベルで、徹底的に復習するぞ!」と考えました。 ちょうどこの年に、大学では日商簿記2級合格者の推薦入学を開始し、その特待生のT君が、私の部屋の隣に入寮しました。でも、大学側は入学後は放ったらかし。そこで、私は、T君に「俺が日商簿記1級を教えてやるから、同じ特待生に声を掛けてくれ。俺も受かってないから、もちろん、無料や。T君らは独学よりはマシになり、俺は自分の勉強のため、無料の日商簿記1級大特訓講座を作るぞ!」と言いました。 そこで集まったのは、T君含めて4人。男3人・女1人でした。私は、大学側と交渉し、何とか夏休みに教室を使わせてもらえることを取り付け、毎日、私の日商簿記1級講座が始まりました。これが、私の非公式な簿記講師デビューです。 そこでの予習・研究による気付きは、その後の私の人生を90度変えるくらいの、凄い気付きの連続でした。まず、自分が説明できない論点は、知っているつもりで、実は、分かってはいないという事。今までは、単に仕訳暗記等の安易な勉強法を取っていたので、そんなこと意識していませんでしたが、それからは、「説明できない論点を、説明できるようにするためには、どう考えればいいか?」という観点から復習することにしました。すると、今までは繋がっていなかった論点が、繋がること繋がること。それまで苦痛だった勉強が、急に楽しくなってきました。楽しくなったら、こっちのモン。次から次へと簿記がわかり始め、ついには日商簿記1級の過去問すべてを暗唱できるレベルまで実力がアップしました。 そうこうしているうちに、11月の本試験。実は、私のゼミの方針として、日商簿記1級合格者は卒論免除だったので、私は日商簿記1級合格に賭けていました。11月に落ちれば、6月まで日商簿記1級の試験はないので、留年決定。そんな危ない賭けをして、自分を追い込み、11月の日商簿記1級に臨みました(のちに、12月いっぱいでテキスト丸写しの卒論を書きましたが)。 本試験は、忘れもしない、商会は合併会計。合併比率の四捨五入の支持で、0.88とも0.89とも取れる問題文でしたが、「えいや!」と私が選んだ方が正解!工原も20年ぶりの等級別原価計算が出題されるも、この回から発売されたラストスパートゼミ(今のネットスクールのラスパ)に載っており、事前に解いていたので、見事完答!不思議と、「俺が誰よりも日商簿記1級対策してきた。俺が落ちたら、受かる奴なんていない」という変な自信に充ち溢れていました。 1月の合格発表を迎え、ドキドキして、郵便受けに待っていました。来ました!合格!!87点!前回が50点だったので、まさに37点アップです。後輩はみんな落ちましたが、その後に、私の人生を変える出来事がありました。 それは、同じ公認会計士講座に通学していた、同年代の東大卒のA君も、その日商簿記1級を受験していたのですが、91点で合格だと知りました。A君は、本当にキレ者で、講義後に講師にする質問も、「先生は先ほどこのように説明されていましたが、こういう考え方もあるのではないしょうか?」と、即興で自分の説を生み出していました。そのA君の後の、私の質問は、「この漢字なんて読むんですか?」というレベルの質問。東大生はやっぱり各が違うと感服してたと同時に、私の心の中ではいつも「俺なんて3流大学だから、いくら努力しても勝てないわ」と卑下していました。しかし、A君の点数を聞き、私は、「同じ時期に公認会計士の勉強を始めたA君の日商簿記1級の点数と、私の点数は4点しか違わない。なんや、東大生でも9点間違えるんだ。しかも、俺と同じ個所を間違っている。俺が思っているより、人間の能力なんて大差ないんや!」と思えるようになったのです。これは大きかったです。こう思えるようになって、難問に挑戦する気持ちが芽生えましたし、何より簿記講師になろうと決意出来る土台になったのですから。つまり、日商簿記1級合格は、私に、表面上の自信ではない内側からくる自信のようなものを与えてくれました。おそらく、日商簿記1級合格がなかったら、私の人生は全く違うものとなっていたはずです。本当に、22歳のときに、日商簿記1級合格を目指して勉強してよかったと思います。当時の日記を見ながら、38歳の私は、22歳の私に「ありがとう22歳の俺!おまえががんばってくれたから、今の38歳の俺がある。タイムマシーンがあったら、22歳の俺に会ってお礼が言いたいわ」と感じています。 でも、失敗もあったんです。教えていた後輩に一人女の子がいましたが、教えているうちに私が惚れてしまいました。すると、周りの後輩も気を遣い始め、私とその子が二人きりになるようにしてくれたり、私が簿記教えてやるととか言ってデートまがいのことをしてみたり、私は最低でしたね。もちろん、そんなことでうまくいく訳がなく、私はフラレ、組織は崩壊しました。もう一度、似たような失敗をしてから、私は、「生徒には絶対手を出さない」と固く決意しました。 大学4年の1月、私のゼミの先生の師匠である横山和夫教授の特別講義があった。確か、税理士合格後、6ケ月くらいで公認会計士にも合格した凄い方で、衝撃を受けた。はっきり言って、横山先生より凄い簿記講師は、過去も、現在も、見たことがない。やる気のない大学生を、一瞬にして講義に集中させるツカミ、生徒から一番やる気のない生徒を一番前に移動させ、その生徒にあだ名(その時は、赤い帽子をかぶっていたので「赤帽」だった)をつけ、「今日はお前中心に講義するぞ!」と言い、その赤帽のみを指して講義することで、200人いる教室全体を講義に集中させるワザ、優等生にもあだ名(実は、当時の大学創立2名目の日商簿記1級合格者だった私で、「ミスター1級」と名付けられた。今のホームページアドレスは、この時に横山先生から付けられたあだ名である)をつけ、簡単な問題は赤帽に、難しい問題は私にと交互に指し、場を盛り上げるリーダーシップ、とてもいつものつまらない大学の講義とは思えないほど盛り上がった。そのとき、私は、「横山先生みたいになりたい!」と心から憧れた簿記講師であった。<公認会計士受験生時代(23歳~)> 大学4年生の3月31日までは、大学の図書館で勉強していると、「偉いね」と褒められるも、4月1日になった瞬間から、「就職もしないで、親の金で勉強して…」というつめたい雰囲気にさらされ、社会の厳しさを知る。 日商簿記1級に軽く合格できるレベルになった私は、次は理論科目を基礎から徹底的に勉強するため、再度、TACの入門講座に入る。後輩のD君も、一緒に通学した。 商法のI先生が私を覚えてらっしゃって、「君、前に受講していたよね?また入門から入ったの?」とお声を掛けてくれて、心から感動した。私は、「そうです、計算科目を固めてから、もう一度入門講座から受講し直し、今度は理論科目も基礎からしっかりとやって、今度こそ合格しようと思います!」と言ったら、I先生は「よいやり方だ」とお褒め下さり嬉しかった。私は、国語が苦手で、全く文章を書けなかったため、I先生にお願いして、毎週論述の採点をして頂いた。約6ケ月で約100万字の商法の論述特訓をしたら、いつの間にか文章力が飛躍的にアップしていた。私は、I先生には頭が上がらない。なお、I先生のカリスマ性は凄かった。 原価計算の清水先生にも頭が上がらない。私の原価計算の下書きは、清水先生の下書きであり、現在の私の簿記の講義に大きな影響を与えている。私は、「将来、清水先生が公認会計士試験の試験委員になったら、私が清水対策の講義をしたいです」と言っていたが、清水先生は、本当に公認会計士の試験委員となられた。凄い!私が、心の底から尊敬と感謝の気持ちを持つ講師である。 簿記の講師がN先生だったのに驚いた。N先生は、私の1回目の入門講座の受講生だったからだ。私は、いつも一番前の席に座り、N先生は2番目の席に座っていた。その時に特に、経済学の講義のときにはN先生は寝ていた(笑)。1回目の入門講座のときにはストイックに勉強していたため、受験仲間を一切作らなかった私は、N先生と話したことはなかったが、寝ている姿を見て、「この人、受かるんかいな?」と思っていた。N先生は、1発で合格して、講師をしていたのである。たまげた。ちなみに、N先生の教え方は、とても分かりやすく、現在の私の簿記の教え方に大きな影響を与えている。つまり、簿記一巡を最重要視している。 民法のY先生も、分かりやすかった。1回目の入門講座のときは、商法担当で、時間帯が朝9時スタートを、いつもの10時スタートと勘違いして、初回1時間遅刻してきて生徒から顰蹙を買ったのだが、Y先生の講義はとても分かりやすく、現在の私の簿記の講義における問いかけるように講義する「質問話法」はY先生から大きな影響を受けた。 財務諸表論のT先生も、分かりやすかった。レジメ穴埋め方式の講義は圧巻で、現在の私のレジメ作りに大きな影響を与えている。また、同じ財務諸表論のビデオの講師だった田中靖浩先生は、凄かった。2時間の講義中半分以上は雑談のときもあったが、そのトークの面白さは半端ではなく、私は大ファンだった。横山先生と同様に、「田中先生みたいになりたい、真似したい!」と憧れた簿記講師だった。 その他にも、様々な講師の生講座を受講したが、その中で、私が「凄い!」と思った講師の方を真似したり、取り入れたりし、私のキャラを考慮して作り上げているのが、現在の私の講義である。もちろん、現在も理想の講師像を考えて、修正中であり、この簿記講師の理想像の追求が、私の人生である。 大学3年時の公認会計士講座では、ストイックに勉強していたため、一人も受験仲間を作らなかったが、それでは長丁場が持たないので、2回目の入門講座のときは、受験仲間を作るようにした。 受験仲間には、私と同い年の23歳の男が多く、23歳グループが出来る。特に、Mちゃんという友人と一番仲良く、よく一緒に勉強した。 2回目の入門講座で、しかも、日商簿記1級に合格していた私は、ミニテストで常に上位だった。そのため、受験仲間から質問責めにあうも、教えるのが好きだった私は、気持ちよく質問に答えていた。ここでの場数も、後の簿記講師としてのノウハウの基礎となっている。 8月に税理士の簿記論を受験するも、あと1点で不合格。以後、会計士試験の数日後に税理士試験があるということもあり、税理士試験は受験していない。精根尽きたあとの税理士試験は、きつかったからである。 と同時に、入門生の中では、「後藤君が受からなければ、誰も受からないよね」といった褒め殺しに合う。劣等生と優等生を同時に経験する。ここでは、人間社会の生々しい嫉妬心を経験する。 2回目の入門講座では、入門期にはトップを維持していたものの、上級期には慶応・早稲田大学出身者等に少しづつ抜かされ始めるが、何とか理論科目も一通りクリアーする。2回目の入門講座 23歳男グループは、かっこいい男もたくさんいた。そのため、ナンパがうまい友人もいた。その友人の一人が、「後藤君、たまにはバーベキュー行こう。」と誘ってきたので、私は付いて行った。河原でのバーベキューで、確か、男女5~6人ずつだったと記憶しているが、頃あいに、男一人が割りばしを取りだし、番号を書いていった。友人の一人が、「後藤君、チューできるぞ、チュー!」と言い、私は何のことやらわからなかったが、流れに身を任せた。すると、「王様だーれだ!」と始まった。そう、王様ゲームである。当時、性の化身なるも、なかなかの純情男だった私は、王様ゲームなんて知らず、徐々にエスカレートする罰ゲームに、驚愕の坩堝に飲み込まれる。私も、キスしてしまった。男と1回・女と2回(しかも、同じ子)。ファーストキスだった。私は、中学生まで牛乳を飲めば子供が生まれると勘違いしていたくらい無知だったので、キスをしたら結婚しなければならないと思い込んでいたくらいだった。実際、キスしてしまった子に惚れかけたが、その日限りのキスのみで終わったため、その恋は終了した。衝撃の体験だった。 人生経験豊富な社会人経験のある受験仲間にも、遊びを教わった。ストリップは、大曽根の銀エイに連れて行って貰ったが、衝撃を受けた。踊り子の軟体性と観客に結構女性客がいたことである。あの軟体性は、相当練習しないとできない。その練習量と、裸を不特定多数の前で出せる勇気に、興奮しながらも感動した。もちろん、ポラも取った。また、「セックスは、男だけがしたいものだ」という固定観念が強かった私は、女性客がいただけで興奮してしまった。 大学生時代、「悪魔に魂を売るみたいで、絶対嫌だ」と誘われても断っていた風俗にも連れて行ってもらった。ファッションヘルスだったが、相手の女性が、元金津園の人気娘だった。私は、同じ手と足を動かしながら歩き、緊張のあまり無言かつ目を合わせられないでいると、「お兄さん、初めて?」と聞かれ、私は「そうです」と言うと、「じゃあ、内緒で本番してあげる!」と言われ、あとはなすがまま、23歳で、罪悪感と快感の狭間で童貞を捨てた。<人生の転換期> 23歳のときに、尊敬する先輩のMさんの後釜講師として、名古屋経営会計専門学校の簿記講師になる。Mさんは、何と、公認会計士講座の入門講座を受講せず、いきなり上級講座から入学し、あっと言う間に成績ランキング上位まで行ってしまった、いい意味の化け物である。ただし、Mさんは4年目で合格し、「やっぱり入門が大切だね」とおっしゃっていた。簿記講師当時、一週間に8コマ(確か1コマあたり3時間?)というとんでもないコマ数をこなしたため、多い時は月給38万円を稼いだ。「こりゃ、すげえ!簿記講師って、儲かるな!」と思うも、コマ数がなければ、ほとんど収入はなかった。そのため、25歳くらいまでは、簿記講師で学費等を稼ぎながら、それでも足りない部分は親の脛を齧り、公認会計士の専門学校に通学した。住んでいたところは、引き続き家賃1万円の学生寮だった。結局、8年間住み続いたので、2回大学生生活を送ったことになる。事情を知っている後輩は大丈夫だったが、知らない後輩は、完璧に私を「何年も留年している寮の主」と思っていたに違いない。そりゃそうだ。27歳まで大学の学生寮に住んでいたのだから。しかし、少しでもお金を節約するため、車はもちろん、普通の青年が買うような買い物は一切せず、稼いだお金は全て公認会計士受験のために使った。徐々に簿記や原価計算で上位の成績を取り始め、成績優秀者に名前も載るようになり、時には1位も取り始める。そして、短答式にも2年連続で合格できるようになり、論文式も合格可能性が出てきた25歳のときである。金銭的にも余裕がなくなってきたため、その年が最後の挑戦ということで、万を期して、論文式に臨んだが、原価計算で痛恨のミスを犯した。忘れもしない、普段は難なく解けていた複数製品のCVP分析の簡単な問題で詰まってしまい、パニックに。原価計算は、最初で詰まると、以下、全滅する恐い科目である。試験中、21歳から無我夢中で会計士の勉強し、それまで苦労してきたことが、頭の中に走馬灯のように流れ、「ああっ、俺の公認会計士への挑戦も終わった…」と涙が出てきて、下書用紙が涙で濡れて、書けなくなってしまった記憶がある。その年、もちろん、論文式も不合格となり、あるニュースを観たときに、私の人生を変えるキッカケとなる事件が流れた。それは、池袋アベック殺人事件である。このニュースを観た時、私は、「ざまあみろ」と思ってしまったのである。これには、「はっ!社会正義のために公認会計士になろうと思っていたのに、アベックが羨ましくて、ざまあみろと思ってしまった…。おれは偽善者か?」と散々悩んだ。ここまで悩んだ時期は、人生において、記憶がない。約6ケ月間、悩みに悩んで出た結論。それが、「社会のためにがんばろうとするから、合格しなかったときに社会のせいにしてしまうんや。なら、俺のためにがんばろう。俺のために公認会計士を目指そう。おれは、何をしているときが一番楽しいんや?………!そうや、簿記講師をしていたときや!大学4年のときに、後輩に教えていたとき、これを仕事にできたら、どんなに幸せな人生を送れるかと思ったやんけ!また、合格報告を貰ったとき、天にも昇る快感を得たやんけ!これや!俺は簿記講師になる!日本一の簿記講師になる!そして、俺がなしえなかった公認会計士を育成する学校を作るぞ。ネーミングは………。そうや、公認会計士の「士」をとって、士塾にしよう!読み方は、サムライ塾や!33歳までに、必ず士塾を設立するぞ。そのためには、簿記講師の修行や。現場(講義)をたくさん経験して、独立したときに、すぐに活躍できるようにしておくで!」と25歳のときに決心した。しかし、現実はそう甘くなかった。<機械警備員時代>働きながら会計士受験をしなければならなくなった私は、まずは仕事探しをした。しかし、これがなかなか苦戦した。そりゃ、そうだ。26~7歳くらいまでアルバイトしかしたことのない若僧で、経理実務経験もない。新入社員研修を受けたこともなければ、パソコンもできない。持っているのは、自動車免許と公認会計士短答式と日商簿記1級である。まず、会社経理や会計事務所を中心に就職活動をした。しかし、立て続けに、「社会経験がないから」とか「経理実務経験がないから」といった理由で落とされる。岐阜・名古屋はもちろんのこと、東京や茨城なんかも少し探したが、結局、20社落ちた。さすがに落ち込んできたが、カネがドンドンなくなるので、仕事をしなければならない。日雇いのバイトなど、どんな仕事でもやった。そして、やっと私を認めてくれた会社があったのである。それが、機械警備会社だった。確か、フロム・エーという求人誌に「パトカー隊員募集」と載っていたと記憶しているが、正義感の強かった私は、「警察みたいでかっこいい!」という理由で面接に行った。50歳くらいのS常務が面接官だったが、「私は公認会計士を目指しています。よって、合格したら辞めるかもしれません」とハッキリ言ったら、逆に私のことを気に行ってくれ、「そうか!そういう志のある若者は、仕事もキチンとやるだろう。公認会計士?結構!結構!ウチは待機時間が多いから、待機中に勉強しなさい。実は、ウチの息子も国家試験に挑戦していてね。いや~、いい若者が来た!」と快く入社させてくれた。就職活動で苦労していたので、簡単に決まってしまったときは拍子抜けしたが、とりあえずホッとした。生まれて初めての定期収入が入った。月に18万円程度だったが、自分で完全に生活している状態がとても嬉しかった。それまで、親の脛をかじりまくっていた私は、奴隷のような気分だったが、それから開放された感覚を持った。仕事も、機械警備員以外もやった。簿記の学校を作る夢を諦めたくなかったので、簿記の家庭教師もやった。新聞屋に手書きの折り込み広告を頼んで、2,000部巻いたが、全く問い合わせが来なかった。そこで、後輩に「簿記を勉強したい学生がいたら、俺に教えてくれ。簿記講師経験者の俺を独り占めできる凄いサービスやぞ!」と口コミ作戦にでた。その結果、数名来た。月数万円の月謝だったが、自分の部屋で完全マンツーマンで教えた。さらに、スポーツジムのインストラクターもやりたかったので、スポーツジムのアルバイトもした。つまり、機械警備員は月・水・金の朝10時~翌朝10時まで仕事し、簿記の家庭教師は火・木の夜にやり、ジムのバイトは土日の一日中やった。警備の待機中に会計士の勉強をした。休みはなかったが、合わせると月30万円は稼いだ。機械警備員は約2年やったが、人生で最も長く務めた会社で、かつ、様々な人生経験を積めた。駐車場のバーが開かなかったりすると出向するのだが、まず間違いなくユーザーはイライラしている。こっちは悪くないのに、いつも怒鳴られた。会計士短答式に合格しているんだという下らんプライドがズタズタになるとともに、社会の厳しさを知ったので、とてもいい経験になった。ペーパードライバーだった私は、運転も覚えた。夜中に起こされるときが多いのだが、どうやっていったか記憶にないのに、現場にキチンと着いていたときは、たまげた。会計士の勉強が役にたったときもある。毎年正月明けに、1,000字くらいの抱負を書かされるのだが、他の社員や隊員が数行しか書けない中、私は論述して毎年賞を貰え、社長に名前を覚えて貰えた。また、入社6ケ月くらいで、仕事は全然できなかったにもかかわらず、主任候補にあがるほどの評価を受けていたと先輩隊員のMさんに聞いたときは、嬉しかった。公認会計士にどうしても受かりたかったので、当時出たばかりの4倍速で聴ける速聴を、成功哲学のプログラム255万円を買い、毎月33,600円のローンを5年間払い続けた。お金を手にした経験がなかったので、お金の使い方をよくわからなかった。20代は、とにかく極貧だった。様々な経験を経て、大手簿記学校の講師の話が舞い込んできたので、機械警備員を辞め、再び簿記講師をすることにした。<大手簿記講師時代>簿記講師としての信念を持っていたので、すぐに人気講師になれた。レジメもたくさん作り、無料補講もバンバンいれ、正規の講座14回のところ、補講の回数の方が多いほどだった。途中、鎖骨骨折したが、講義があるので、手術日をずらしてもらい、右鎖骨が折れたまま講義した。今、39歳だが、15年間、一度も代打講師を頼んだことはない。合格率も半端でない結果を出し、当初は日商簿記1級の商業簿記・会計学と国税専門官コースの会計学だけだったが、日商簿記1級の工業簿記・原価計算や国税専門官コースの経営学の話も来た。しかし、レジメの大量コピーについて、再三の注意にもかかわらず、無視して講義したという理由等で、その大手簿記学校はクビになった。信念は曲げない性格が災いしたのかもしれないが、私はあくまでお客さんのために講義したかったので、全く後悔はしていない。もし、クビになっていなければ、今も名古屋で簿記講師をしていたかもしれないことを考えると、茨城県で士塾を創業でき、今までの塾生と出会えたことは、とてもよかったと思っている。 クビになってからも、様々な仕事をし、また他の大手簿記学校の講師になった。しかし、簿記講師だけでは食えなかったので、それ以外に、色々なビジネスやバイトもやった。営業経験がなかったので、どうしたら稼げるのかを考え、即実践した。失敗ばかりで詐欺にも遭ったが、このときの失敗やビジネス経験が、後の独立時に大きく役にたった。その後、2004年の1月まで岐阜・名古屋で在住し、13年10ケ月間、血と涙と汗の結晶である、岐阜県瑞穂市を後にする。<独立後(2004年~2005年)> 32歳の誕生日である04年2月17日に、簿記専門の学習塾・士(サムライ)塾を開塾しました。士は当て字なのですが、25歳の時に、元気のない現代社会に憤りを感じ、「サムライ魂を持った気合いの入った人間を創り出す学校を創りたい」と志しました。 もともと、21歳から公認会計士を目指して青春時代のほとんどを簿記の勉強に費やしていましたので、簿記講師修行として、某大手簿記学校での簿記講師経験を積みました。そして、いよいよ32歳で独立するところまで行き、ワクワクが最高潮になりました。 しかし、ワクワクしたのは初めの1週間で、すぐに厳しい現実が待っていました。そう、集客です。集客が獲得出来ないと、リピートはおろか、口コミ戦略も使えません。全ての経営の基本は集客にあることに、すぐに気づかされました。それからは、集客について書かれた本を片っ端から読み、実行→失敗→検証→実行を繰り返しました。 その中で初めて当たったのは、某広告に掲載したGWの「3日で簿記3級」でした。この時の感動は今でも忘れません。結局、3名様でしたが、資料請求は11件ありました。この時は、初めて自分で集客した生徒さんだったということもあり、「必ず合格させて、次の2級講座に繋げるぞ」と気合いを入れて講義しました。講義も終わり、生徒さんから「簿記って面白いですね。3級合格したら2級もお願いします!」という嬉しいお言葉も頂けました。私も、これ以上教えられないというくらい教え切り、合格を確信しました。と同時に、「リピートも行ける、口コミ戦略を決行出来るぞ!」と皮算用しました。 ところが! …です。 何と、その回が簿記検定至上最悪の全国平均合格率を誇る、魔の第107回だったのです。3級合格率が、約13.7%(水戸は約5.7%)。もちろん、この回は例外中の例外(通常、3級合格率は40%前後です)でしたが、士塾は全滅でした。 それから、約半年間は仕事が全くなく、「そろそろ、廃業してバイトせなアカンな…」と思っていた矢先です。1本の電話がなりました。それは、「日立商工会議所さんからの推薦ですが、簿記の知識が必要となったので、そちらで講座を受講したいのですが…」という内容でした。私は、飛び上がるほど嬉しかったのですが、「忙しい人ほどお客がつく」と本に書かれていたのを思い出し、「わかりました。スケジュールを確認してから折り返し連絡いたします」と電話を切りました。もちろん、スケジュールなんかガラ空きです。その時は、2名様を同時に講義することになり、講義も無事終わりましたが、その後、予想もしない仕事が入ってきたのです。実は、その生徒さんの一人が、某職業訓練校のパソコン講師で、私の講義を認めて頂き、簿記の職業訓練講座をお願いしたいとの依頼でした。生徒は20名前後、コストゼロで新規顧客に出会え、しかも、講師料まで頂ける。夢のような集客方法を見つけたのです!それから、日立・ひたちなか及び水戸の職業訓練校に営業を掛け、職業訓練の簿記講座の市場占拠率約8割を獲得できました。<独立後(2006年~2007年)>人生で一番、最高潮に忙しくなりました。平日の9時~17時は職業訓練、平日の夜のほとんど全てと土曜日の昼から夕方は日商簿記2級生講座、日曜日は一日中レジメ作りという毎日を繰り返しました。一日9時間の生講座を数ケ月間連続で続けて、(一ケ月だけですが)念願の月収7ケタも到達しました。女性からも「一人で夢に向かってがんばっている姿がカッコいいです!」と一年に一人くらいづつ告白され、初めて女性とも付き合いました。「この俺がカッコいい?20代はフラれっぱなしだった俺が?んなアホな!しかも、このまま稼げば、俺も年収1,000万円プレーヤーの仲間入りできるぞ!しかも、人なし・コネなし・カネなしから、俺一人でマーケティングとセールスで成功したんや。俺って、凄いな!」と思いっきり勘違いの調子込んでいました(恥)。しかし、そんなことはいつまでも続くわけもなく、ある日、焼きそばを食べながら、ワンピースのエースみたいに、極度の疲れで寝てしまいました。もし、焼きそばがラーメンだったら、溺れていたでしょう(笑)。また、このころから、多発性の円形脱毛に悩まされ、「こりゃアカン!このままでは過労で死ぬわ。少し仕事を減らそう」と収入アップより、時間確保を優先することにしました。 教室と出張講座の両方で生講座をしていましたが、年収より身体の健康を優先させ、仕事数は減らしましたが、リーマンショックで資格が欲しいという人がたくさん溢れ、通常の4倍の集客ができました。 しかし、小泉首相から安部首相に変わり、職業訓練の数が16分の1になりました。そのため、取引先の職業訓練校が次々に倒産し、コバンザメ商法をしていた私も、倒産危機に陥りました。<独立後(2008年)> 職業訓練講座がなくなり、集客に悩んだ私は、自らの教室で集客する打開策を打ちましたが、これがなかなか厳しかったです。何とか、職業訓練生から社会人の客層をシフトし、土日祝の生講座を開講させることで食い繋ぎました。この点、職業訓練のときよりも生徒は激減しましたが、自分の教室で集客すると、間接販売ではなく、直接販売になるため、収入は数パーセント減のみで済み、かつ、平日は全て予習研究に時間が充てられるようになり、時間的にも余裕が出来ました。<独立後(2009年)>元1級塾生の会沢英明君が、20歳で公認会計士論文式全科目に合格しました。このとき、私自身が何得なかった公認会計士論文式合格に、本音の所では妬むのかと思いきや、久慈浜海岸を歩きながら、「何か、嬉しいわ…。何か、自分が受かったような気分や…。本当によかったな!会沢君!!凄いわ!」と素直に喜べました。この頃に、私自身ももう一度公認会計士にチャレンジしたい気持ちが復活してきました。しかし、これが後に倒産危機を迎えさせる要因となりました。<独立後(2010年)>私自身も公認会計士試験に再チャレンジするために、商売よりも自身の勉強時間確保を優先するようになりました。完璧に商売人失格ですね(涙)。その結果、新規顧客ゼロとなりましたが、急遽、FPの元塾生からご依頼いただいた、3月11日からの職業訓練講座のみを仕事にし、5月の公認会計士短答式試験を約10年ぶりに受験しました。20代の受験生と混じって受験し、「俺も必死に勉強してたよなあ…」と、とても懐かしかったです。結果は、不合格。しかし、公認会計士試験に再チャレンジできて、本当によかったです。今回は、20代の時と異なり、メンタル面もレベルアップしていたので、受験を心から楽しめました。と同時に、日商簿記1級以上の受験対策は20代に任せ、私自身は自分の人生を商品化するスタイルに移行すると決心することにしました。 しかし、新規ゼロのため、商売は苦しみました。何とか食う分の稼ぎはありましたが、「これではマズイ、倒産するな…」と思い、8月2日にある2級塾生に設定してもらって、アメブロを始めたわけです。そして、ブログでご縁を頂いた酒井とし夫さん!この方には、本当に頭が上がりません(感謝)。商売に苦しんでいた時期だったので、質問メールをさせていただいたら、物凄く誠実にご回答いただきました。そのアドバイス通りに実践したら、売上が10倍に!(嬉)一気にファンになった私は、酒井さんに直接お礼が言いたくなり、山形県鶴岡市で酒井さんの講演があると知り、即決で申込み、毎週水曜日に茨城県日立市から山形県鶴岡市まで通学しました(笑)。11月に一度だけ有料コンサルのため弊塾にも来ていただき、そのときにコンサル頂きましたが、たった一人で一億円を稼いだ酒井さんの商売のノウハウをお教えいただき、そのときのスケッチブックをもとに、毎日、経営戦略を立てています。やはり一億円を稼いだ方です。その商売の考え方は、シンプルですが、経営戦略の重要性を知りました。それから、10年後には、酒井とし夫さんのような40代後半になろうと決心し、経営戦略とマーケティングを今以上に真剣に学ぶようになりました。<独立後(2011年の現在)>酒井さんと出会い、コンサルにて経営の教えを頂き、竹田先生および酒井さんのDVD教材で経営戦略を学び、菅谷信一さんからご縁を頂いた同友会に入会し、弊塾の取るべき方向性がハッキリと見えました。あとは3月から経営戦略の実行という段階まで来ましたが、ご存じの通り、3月11日に大震災(涙)。ライフラインも止まり、電車も止まり、受講キャンセルも相次ぎ、過去2番目の倒産危機に陥りました。しかし、震災後にすぐにお電話を頂いた酒井さん、4月に竹田先生の説明会にも出席し、5月には栢野さんの講演も受け、同友会のメンバーにも励まされ、そして、私の簿記能力を必要としている塾生達にも支えられ、現在も何とか経営できており、幸せです。私の夢は「社長のための簿記会計」をテーマに、43歳までに、全国講演することです。こんな私でよければ、応援をよろしくお願いします!!
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